先日の中国・薛剣大阪総領事によるX(旧Twitter)での投稿が物議を醸している。
高市総理の台湾有事に関する答弁に対し、「汚い首を斬り落とす」という表現を用いた件だ。日本のメディアやネット上では「外交官にあるまじき暴言」「常軌を逸している」と怒りの声が溢れている。
確かに強烈な言葉ではある。しかし、感情的に反発するだけでは見えてこないものがあるのではないか。この発言の裏にある中国特有のレトリックと、それを「暴言」としか捉えられない日本側の感覚、そして過去の歴史的教訓から、外交におけるコミュニケーションの断絶について考えてみたい。
1. 「暴言」の皮を被った「論理的な警告」
まず冷静にあの文章の構造を見てみる。
「(もし勝手に)首を突っ込んでくれば」→「(その時は)汚い首を斬り落とす」
という、「If(条件)→ Then(結果)」の構文になっている。
中国外交には伝統的に、「言わなかったとは言わせない(勿謂言之不預)」というように、事前に激しい言葉でレッドラインを提示するスタイルがある。「粉骨砕身」や「頭破血流」といった身体的な毀損を伴う表現も、彼らにとっては「本気度の証明」としての定型句(クリシェ)に近い。
つまり、これは単なる感情任せの罵倒ではなく、「これ以上介入するな」という明確な抑止のシグナルなのだ。「中国の古典にありそうな表現」と感じる人もいるだろうが、彼らなりの様式美に則った「警告」と解釈するのが、外交的な読み解きとしては正解に近いだろう。
(もっとも、「汚い」という形容詞をつけたことで、警告のラインを超えて品位を欠いた侮辱になってしまった点は否めないが。)
2. 日本人の「生理的嫌悪」とメディアの切り取り
一方で、日本側がこれを「ただの暴言」として受け取るのにも理由がある。
日本では公の場、特に外交において直接的な暴力表現を使うことは「理性を失った野蛮な行為」とみなされる。論理構造以前に、その語彙選択自体が生理的に受け付けないのだ。
さらに、SNSやメディアでは「前提条件」が切り取られ、「中国総領事が『首を斬り落とす』と発言」という見出しが独り歩きしやすい。これでは文脈を知らない人々が「いきなり喧嘩を売られた」と感じ、ヒートアップするのも無理はない。
しかし、ここで「売り言葉に買い言葉」で感情的になるのは、相手の挑発に乗るようなものだ。むしろ「ああ、いつものチャイナ・レトリックだな」と冷ややかに分析する姿勢こそが、相手にとって一番嫌な反応かもしれない。
3. 外交に「奥ゆかしさ」は不要か? 太平洋戦争の教訓
ここで想起されるのが、かつての日米開戦前夜の出来事だ。
日本はアメリカへの最後通告(対米覚書)において、「交渉の打ち切り」を通達した。日本側の感覚、いわゆる「察しの文化」では、「交渉決裂=開戦」は言わずもがなの当然の帰結であり、直接的に「宣戦布告」という言葉を使わないことこそが、ある種の奥ゆかしさや武士の情けでもあった。
しかし、ローコンテクスト(言葉にしたことだけが事実)な文化圏であるアメリカには、そのニュアンスは伝わらなかった。結果、「騙し討ち」という汚名を着せられる一因となってしまったのだ。
「言わぬが花」「行間を読む」――これらは日本国内で通用する美徳であって、価値観の異なる国家間においては、しばしば致命的な誤解を生むリスクとなる。
おわりに
今回の中国総領事の発言は下品極まりないが、メッセージとしては「誤解の余地がないほど明確」だった。「ラインを超えれば撃つ」と明言しているのだから。
翻って日本はどうか。「遺憾の意」という言葉一つとっても、国内向けには「強い怒り」を含んでいても、国際的には「残念(Sorry)」程度にしか響かないことがある。
「奥ゆかしさ」を捨て、無粋なほどハッキリと言葉にする。
あの戦争の教訓を振り返り、現代の戦狼外交と対峙するとき、我々に必要なのは感情的な反発よりも、こうしたドライで明確な「翻訳能力」と「発信能力」なのかもしれない。
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